訃報に「家族葬」とあったら葬儀に参列しないのが正しいマナーですか?
2019年1月8日
訃報を受け取ったとき、「家族葬」とあるかないかで、とるべき行動は変わってきます。
それについて見ていきましょう。
受け取った訃報の違いについて~電話などでの要請があった
「受け取った訃報に家族葬と書いてあった」という場合でも、その種類は大きく4つに分けられます。
どのような訃報を受け取ったかで、「参列するべき」「参列しても構わない」「参列するべきではない」が変わってきます。
まずは、電話などで訃報を受けた場合について見ていきましょう。
電話などで、「○○が亡くなった。家族葬を行うのだけれど、ぜひ来てほしい」などのようなお知らせがあれば、何をおいてでも参加すべきです。
だれかが亡くなったときというのは、家族は非常に忙しい状況にあります。そんななかでわざわざ連絡をしてきてくれたのであれば、それは「参列願いだ」と判断するべきです。
家族葬に参列するのは、基本的には「ご遺族が声を掛けた相手」となるからです。
受け取った訃報の違いについて~日時が書かれている場合
ハガキなどで訃報を受け取った場合についても見ていきましょう。
ハガキには、「○○が亡くなった。▽月×日の◇時から、△△会館で葬儀を行う」と記されている場合と、記されていない場合があります。記されている場合は、場所も時間も書かれていますから、参列しても構いません。
また、「どうしても行くことはできないが、弔意を示したい。供花や供物を出したい」という場合は、葬儀会場に電話をして、受付をしているかどうかを聞いてみることも可能です。
なお、家族葬の場合は、供花や供物はお断りしていることも多いので、必ず確認するようにしてください。
なお、供花や供物は辞退していても、弔電は受け付けているケースもあります。訃報に「供花・供物・不祝儀は辞退する」という旨が記されていても、弔電ならば構わないと考えている可能性もありますから、これも確認するとよいでしょう。
受け取った訃報の違いについて~日時が書かれていない場合
家族葬は基本的には身内だけで行われるものです。そのため、大々的な告知などは行わず、ひっそりと行われるケースも多いといえます。おくやみ欄などにはのせず、看板などを出すこともなく粛々と行われるのが一般的です。
ただ、忌引きをとる関係や義理のこともあり、「訃報は出す」という喪家もあります。
かたちとしては、前の項目で紹介したものとあまり変わりません。
ただ、日時や会場が記されていない訃報もあります。
このような場合は、「葬儀は行うが、家族葬なので参列は基本的には受け付けていない」という意味だととるべきでしょう。参列は控えるのがマナーです。
受け取った訃報の違いについて~参列を辞退する旨が書かれている
一番分かりやすいのがこのケースでしょう。
「訃報は受け取ったが、そこには参列は辞退するという旨が書かれている」というものです。
この場合は、遺族側から、「参列はしないでほしい」という意志表示を受けていると考えてください。ほかのケースとは異なり、明確な意思表示なのですから、参列してはいけません。
また、このようなケースの場合は、非常に高い確率で、「不祝儀・供物・供花辞退」の旨も書かれていることでしょう。
「葬儀に参列ができないのならば、せめて供物や供花を送りたい」と思っても、送ることはやめておきましょう。
葬儀においてもっとも尊重されるべきなのは、故人の遺志であり、ご遺族の考えだからです。
「お別れができなかったこと」が心残りならば……
「家族葬」は、現在非常に人気のある葬儀のかたちです。都心部などでは特に多く見られるとされています。
平均寿命が延びており、亡くなる方も喪主もご高齢であることが多く、参列者の数も望めないケースが多いため、今後はさらに家族葬が増えていく可能性もあります。
家族葬は、遺された家族にとっては選びやすい葬儀のかたちです。
一般葬に比べて費用も安く、接客や対応に心を砕く必要もなく、決めなければいけないことも少なくて済みます。
また、葬儀自体も短い時間で済むため、体力や健康面で不安を抱えている人でも比較的負担が少なくて済みます。
しかし、家族葬ということで参列できなかった人は心残りができるかもしれません。
このような場合は、仏壇などに手を合わせさせていただけるかどうかを聞いてみるとよいでしょう。
後日、おうちに弔問に訪れるというかたちで折り合いをつけていくのです。ご遺族が落ち着いたタイミングを見計らい、不祝儀を持参して伺うようにしましょう。もちろん、事前にしっかりと許可をとらなければなりません。
「それも難しいようだ」ということであれば、お墓参りなどに行くとよいでしょう。心のなかでそっと手を合わせて、故人の安寧を祈るのでも構いません。
弔いのかたちや弔意の表し方は一つではありませんし、正解があるものでもありません。自分自身が故人と向き合い、その死を悼むのであれば、それも一つの供養のかたちだといえるでしょう。